東京高等裁判所 昭和32年(う)1202号 判決
被告人 太田末広
〔抄 録〕
本件公訴事実の要旨は、被告人は、東京新聞販売普及員として、新聞購読者の勧誘に従事している者であるが、昭和三一年一〇月一四日、群馬県群馬郡群馬町内において、同僚渡辺三朗と共に右購読者を勧誘中、午後六時ごろ、間食をとるため、同町大字三ツ寺菓子並びに飲食店清村うめ方に立ち寄つた際、同店において飲酒酩酊していた鈴木三治(当時四四年)より因縁をつけられ、悪口雑言を浴せられ、同店を逃れ出たるも、同人より引き続き執拗に追尾されて罵倒された上、同町大字三ツ寺交叉点に至つたところ、襟首、背広を掴まれ、引張り寄せられたので憤慨し、殴打しようと決意し、矢庭に同所において、右手拳で同人の顏面を一回強打し、同人をその場に仰向けに転倒させて、後頭部を地面に強打させ、因つて同人に対し、脳震盪、後頭部裂創、後頭右前頭部頭蓋骨龜裂、並びに頭蓋底骨折欠損、硬脳膜下血腫、左右前頭葉脳挫傷、上眼瞼、口唇部打撲傷を負わせ、翌一五日午後一一時ごろ、同町大字中泉七〇四番地被害者自宅において、右硬脳膜下血腫による脳圧迫、左右前頭葉脳挫傷による脳内出血により死に至らしめたものである。というにあるところ、原判決が、被告人の所為は、刑法第三六条第一項に該当する正当防衛行為であるとして、被告人に対し無罪の言渡をしていることは、所論のとおりである。所論は、右は、原判決が証拠の取捨選択を誤り、事実を誤認した結果、正当防衛行為の成立する要件となる事実がないのに正当防衛行為であると断定したものであつて、右の誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は、この点において破棄を免れない旨主張するにより、考察するに、正当防衛行為と認定するには、(1)自己又は他人の法益に対する極めて切迫した違法な攻撃、即ち急迫不正の侵害があること、(2)その侵害に対し、自己又は他人の法益を防衛するための行為であること、(3)当該具体的事情の下において、当時の社会通念が防衛行為として当然性、妥当性を認め得る方法で排除する行為、即ち已むことを得ざるに出た行為であることが必要であつて、右要件の一つが欠けるときは、正当防衛が成立しないと解すべきことは、所論のとおりである。そこで、これを本件についてみるに、原判決の挙示する証拠を総合するときは、被告人は、東京新聞販売普及員として、新聞購読の申込勧誘に従事しているものであるが、昭和三一年一〇月一四日、同僚の渡辺三朗と共に、群馬県群馬郡群馬町方面を勧誘の途次、同日午後六時ごろ、同町大字三ツ寺一一九七番地飲食店清村うめ方に休息のため立ち寄り、焼酎を注文して飲んでいた際、たまたま同店において飲酒酩酊していた鈴木三治(当時四四年)から、「お前焼酎一杯きり飲めないのか、金がないのか。」などといつて因縁をつけられ、悪口雑言をあびせられたので、紛争の生じるのを避けて、同店を早々に逃れ出たが、なおも同人がしつこく後を追つて来て、「この野郎逃げるのか、馬鹿野郎、たたき殺してやる。」などとどなりつけ、あるいは、立ちふさがつて被告人の行手をはばんだりしたけれども、その都度、これにかまわず、難を避けていたところ、同町大字三ツ寺十字路に差しかかつた際、またもや追いついて来た同人に手をつかまれたので、これを振り切ると、同人は、「この野郎待て。」と言いながら、左手で被告人のワイシャツのえりのあたりをつかみ、右手で背広上衣のボタンをつかんでぐつと引きもどそうとしたので、被告人は、これを振り払うため、右手拳をもつて、前示鈴木の左ほほのあたりを一回強打したところ、酩酊のため身体の安定を著しく欠いていた同人は、その場に仰向けに倒れて、道路面で後頭部を強打し、脳震盪、後頭部裂創、頭蓋骨龜裂、硬脳膜下血腫、左右前頭葉脳内出血等の傷を負い、因つて、右硬脳膜下血腫による脳圧迫、左右前頭葉脳内出血のため、翌一五日午後一一時ごろ、同町字中泉七〇四番地同人自宅において死亡した事実が認められるのである。そこで、右認定にかかる被告人の所為が、果して正当防衛の要件を具備しているかどうかについて考えてみるに、前示鈴木の被告人に対する一連の執拗な行動は、全く不法ないいがかりであつて、これに対し被告人は、終始これを回避する態度に出ていたのであるから、右鈴木が前示のように、被告人のえり元をつかんで引きもどそうとした行為は、正に被告人に対する急迫不正の侵害というべきであり、被告人がこれを振り払うため、右手拳をもつて鈴木の左ほほを殴打した行為は、右の侵害に対し自己の権利を防衛するための行為と認め得られることは、いずれも原判決認定のとおりであるけれども、前示のように、非常に酩酊の結果、身体の安定を著しく欠いていたと認められる酔漢鈴木の前掲程度の侵害に対する防衛行為としては、被告人の前示所為は、いささかその必要かつ相当の限度を超えたものと認めるのが妥当であると考えられるのである。してみれば、被告人の本件所為は、刑法第三六条第二項所定のいわゆる過剰防衛行為に該当するものと認められるけれども、同条第一項所定の正当防衛の要件を欠き、従つて傷害致死罪の成立を免れないと考えられるので、原判決には、この点につき事実の誤認があつて、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるというべく、原判決は、この点において到底破棄を免れないから、論旨は理由があることに帰する。
(中西 山田 石井謹)